目に見えるもの

ただそれだけで、教育を捉えると
大きな間違いをしてしまうと思います。

しかし、見えにくいものだからと言って
それを見えるものに変えて表現することを怠ると
私たちの存在意義が問われてしまうような気もします。

これは、本日の朝の全体朝礼のひとコマですが、

年齢はあまり関係ありません。

「正座をして、お話をする人の目を見て
集中して聴くことができる。」

文章にすれば、ただこれだけの事ですが、
それを実践するためにどれだけの時間が必要だと思いますか。

私は、何かができるということだけを目指して
今の教育をカリキュラムとして実践しているのではありません。

ましてや、○○式などと呼ばれているからと言って
その全てが特異なものとして受け止められることについては
正面から反論したいと思います。

恐らく、そのように受け止められる方は
物事を表面上でしか捉えきれていないのではないでしょうか。

小さな事であれ、「できるようになる」という事に
私たち教職員一人ひとりはしっかりと意味を見出す努力をしています。

なぜなら、それも育ちの大切な一側面だと思うからです。

その点で、このカリキュラムについては
見た目の派手さで評価されることを
私たちは決して望んでいません。

興味があるとかないとか
そんな事はどうでも良いのです。

この指導方法が数ある幼児教育の
ひとつの立派な方法論として、
確立されていくように、
そして、当然ながら
そのような評価をしていただけるように
日々の努力の積み重ねが私たちに求められていると思っています。

期待していただいている保護者の皆様のためにも、
幼児教育の成果としての
ヒトツの形を伝える努力が大切なのだ。

その気持ちを胸に
これからも頑張ります。